人工言語の「美しさ」ってよく話題になりますが、これが良く分からない。ノシロを含め、発音とかの「美しさ」を売りにした人工言語はたくさんありますが、こんな抽象的・主観的な用語を使われても…とおもったものです。
以前に、私も人工言語は芸術作品と同じであるなんて発言しましたから、第三者がそれぞれのモノサシで美しい・美しくないと評価するのはもちろんあることなんでしょうが、美しさとはどんな基準によるものなのでしょうか?
そういえば「エスペラントに表現力はあるか」みたいな論文を読んだことがあります。翻訳文学を対照して、「ほら、うまく翻訳されてる。だから表現力があるんだ」みたいな論だったかと思います。その論法の可否はさておき、これは「人工言語には文化が無い、ゆえに表現力豊かな自然言語には及ばない」みたいな一般論に対する反発?かと思います。
なるほど、なんだか言語は繰り返しを嫌うような気がします。言語にもよるんでしょうか?いや、普遍的な気が。語彙にしても文法的なものについても。あまりに規律が取れていて、一つの文の中に同一の形式、短いまとまりの中に同一の単語、なんかがあると、気持ち悪く感じる。この点はいくらか客観的に、言語学的に、「美しさ」を同定しうるものかもしれない。
エスペラント以降の自然派人工言語は、不規則を取り入れた。それまでの人工言語に求められた簡単さに相反するものである。特に頻出の品詞の語尾が統一されていると、気持ち悪いんだろうか。
単語も、学習の観点からすれば少ないほうがいいし、類義語なんて不必要。しかし美しさから言えば、「表現力のない」文章は、見苦しい。悲しいときに「悲しい」。嬉しいときに「嬉しい」としか表現し得ない言語だなんて…。共通語志向の人工言語なら、比ゆ的な言い回しも避けたいところ。
「言語は繰り返しを嫌う」が真だとすれば、(文法・語彙面での)「美しさ」は比較的わかりやすくなる。
が、本当に「美しさ」は必要なのか、それが問題で。
私としては「美しさ」からイメージする「美しさ」は、単語レベルでなく文レベルで『拍』が調和し、韻を踏む。2〜3文繰り返したら別の形式に変わる、みたいなものだった。
思い起こせばTetoute製作当初はそんなイメージもあったが、挫折。そううまくいかない。
結局今のところ、「自然言語っぽさ」こそTetouteの「美しさ」と考え、日々精進。